本多忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代最強の武将との呼び名も高い武士の1人。なんと忠勝には、生涯参戦した57回のうち、「かすり傷一つも負わなかった」という逸話も。
戦に強い「本多忠勝」は、徳川幕府で有名な「徳川家康」の家臣でもありました。徳川家に長く尽くしてきたことから、「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」と呼ばれます。
本記事では、徳川家臣最強の武将として語り継がれている「本多忠勝」の戦でのエピソードや、生涯に渡って関わってきた人物(徳川家、家族など)、戦で着用した「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」という甲冑について詳しく紹介します。
本多忠勝とはどんな人物?
画像引用:信玄・信長も羨んだ「徳川四天王」最強武将・本多忠勝が辿った生涯(サライjp)
本多 忠勝とは、戦国時代~江戸時代前期にかけて活躍した武将・大名のこと。忠勝の生誕地は、愛知県岡崎市です。
忠勝は、戦に強く実力のある武将だったことから、「桶狭間(おけはざま)の戦い(※1)」の前哨戦では、初陣を飾ったというエピソードあり。
姉川の(おねがわ)の戦い(※2)では、単騎掛け、一騎討ちで勝利した経験を持つなど、武勇に大変優れた人物として、長く語り継がれています。
※1 桶狭間の戦い……尾張国知多郡桶狭間での、織田信長軍と今川義元軍の合戦。尾張の織田信長が本陣を奇襲し、今川義元を討ち取った。参考記事:桶狭間の戦い(ホームメイト)
※2 姉川の戦い……織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた合戦。
参考記事:姉川の戦い(ホームメイト)
本多忠勝はどれくらい「戦」に強かったの?
本多 忠勝は、57回の戦に出陣しながらも「戦の中で、傷1つ負わなかった」という逸話あり。負傷することなく、幾多もの戦に出陣したことから、忠勝が戦に大変強い武将であったことが伺えます。
本多 忠勝が使っていた「蜻蛉切」とは?
画像引用:日本刀の名刀「天下三名槍 蜻蛉切」(刀剣ワールド)
忠勝が戦の時には、天下三名槍に数えられる槍となる「蜻蛉切」を片手に挑んだそう。本多忠勝が戦の時には、鋭い切れ味を持つ「蜻蛉切」を用いて、「姉川の戦い」、「一言坂の戦い」などの戦を勝ち抜いてきました。
本多 忠勝が使用していた「蜻蛉切」とは、鋭い切れ味を誇る「槍」のこと。「蜻蛉切」は、「日本号」、「御手杵(おてぎね)」と並ぶ「天下三名槍」のひとつ。「蜻蛉切」の名前は、戦場で飛んでいたとんぼが槍先に止まった時に「真っ2つ」になったことが由来となります。
槍の長さは、全体で約6mほど。刃の長さは、1尺4寸(約43.7cm)、茎は1尺8寸(約55.6cm)。通常槍の長さは5mに満たないものが多いところ、蜻蛉切は約6mほどの大笹穂槍でした。ただし、本多 忠勝の晩年には槍が短く削られてしまったそうです。
「蜻蛉切」の作者は、「三河文殊派」の刀工である藤原正真(ふじわらまさざね)によるものだと言い伝えられています。
本多 忠勝の晩年・最期は?
本多 忠勝は戦を引退したのち、体調を崩して眼の病気にかかっていたという言い伝えがあるようです。
なお、本多忠勝には、戦の引退後に「小刀で持ち物に名前を彫っていたところ、指先を切ってしまう」といったアクシデントに見舞われたというエピソードも。小指を切ったアクシデントの際に自身の「死期」を悟り、その数日後に亡くなったと言われています。
参考記事:本多忠勝の歴史(ホームメイト)
参考記事:本多の晩年と最期(歴史のトリビア ひすとりびあ)
本多忠勝が使用していた「甲冑」とは?
本多忠勝が戦の時に使用していた「甲冑」の正式名称は、「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」と呼びます。「黒糸威胴丸具足」は、国の重要文化財に指定されている貴重なもの。
兜には、大鹿角の「脇立(わきだて)」、金色の大獅子噛(おおししかみ/おおしがみ)の「前立」(まえだて)が取り付けられています。
「黒糸威胴丸具足」で使われている兜の名前は、鹿の角があしらわれた「鹿角脇立兜」(かづのわきだてかぶと)」というもの。
「黒糸威胴丸具足」は、鹿の角の形が特徴的な「鹿角脇立」、獅噛前立を合わせて作られた兜、黒糸威による黒づくめの胴丸具足、肩から数珠をかけた姿が特徴的。
戦国時代には数々の「変わり兜」がありますが、その中でも「鹿の角」のような形をした兜、黒づくめの鎧で作られた「黒糸威胴丸具足」は、戦の時には、ひと際目立つ存在感を放っていたそうです。
黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」の兜の作り、使用された素材は?
「黒糸威胴丸具足」の兜は「十二間筋兜」といい、12枚の鉄の板を剥ぎ合わせて作られています。表面は「黒の漆」で塗られており、艶のある漆黒色が美しいのが特徴です。
木製の前立の獅噛(しかみ)は、黒の漆で美しく塗られています。胴の部分には、脇部分に「鉄の蝶番」があり、前後二枚の胴で構成されることから二枚胴と呼ばれています。黒の糸を使用し、素懸(すがけ)威という威(おどし)の技法を採用しています。
威とは、鎧兜の小札(こざね)板を、革、糸などの緒で上下に結び合わせる工法のこと。素懸(すがけ)威は威の編み方の種類の一つで、小札板に糸を二筋づつ並べて綴っていく技法のことを指します。
籠手(こて=手の甲を守る防具)、佩楯(はいだて=太ももと膝を守るための防具)には、カルタ札(ざね)という板を鎖で繋いで作成します。それぞれ石黄、藍を使用して漆(青漆)や乾性油を塗布して、丁寧に仕上げていきます。
肩から甲骨にかけられた金塗りの「大数珠」には、「木製算盤玉形金箔押」という名前がついており、その名の通り「木製の箔押し」で作られています。数珠は黒色を基調とした本甲冑(鎧兜)の差し色となる上に、本多忠勝の「神」への信仰心が表れているのだとか。「木製算盤玉形金箔押」は、戦場の死者を弔うことを目的で掛けていたという言い伝えもあるようです。
参考記事:国宝・重要文化財(美術工芸品)(国文化財等データベース)
参考記事:本多忠勝 甲冑写し(黒糸威胴丸具足)(ホームメイト)
徳川家とのつながり
本多 忠勝は、「戦国最強の武将」というエピソードの他にも、生涯をかけて「徳川家康」に尽くした「徳川四天王」の1人としても有名です。
なお、忠勝の祖父である「本多 忠豊(ただとよ)」、父の「本多 忠高(ただたか)」は、ともに家康の父である「松平広忠(ひろただ)」に仕えていました。父が戦死したころ、忠勝は2歳。祖父・父ともに戦死していたため、忠勝は叔父である「本多 忠真(ただざね)」のもとで育つことに。
幼少期から松平家(徳川家)・本多家の繋がり、父・祖父のエピソードを聞いて育った忠勝は、「徳川家」への忠誠心を生まれながらにして自然と身に着けていきました。その後、本多 忠勝は「徳川家」への忠誠心を守りながら、数々の戦で勝ち抜け「徳川家臣最強の武将」と呼ばれるようになったのです。
生涯にかけて「徳川家」に尽くしてきたことと、戦に強かったこともあり、徳川家臣最強の武将として「徳川四天王(※1)」「徳川三傑(※2)」「徳川十六神将(※3)」と呼ばれるようになりました。
※1 徳川四天王……徳川家康の側近として仕えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。
※2 徳川三傑……徳川家康の功臣のうち、武勇に秀でた本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人。
※3 徳川十六神将……徳川家康が三河の大名であった頃から忠義深く仕え、江戸幕府開設時に尽力した16人の家臣達のこと。
徳川十六神将と呼ばれる人物は、以下の通り。
- 酒井忠次
- 本多忠勝
- 榊原康政
- 井伊直政
- 米津常春
- 高木清秀
- 内藤正成
- 大久保忠世
- 大久保忠佐
- 蜂屋貞次または植村家存(家政)
- 鳥居元忠
- 鳥居忠広
- 渡辺守綱
- 平岩親吉
- 服部正成
- 松平康忠または松平家忠
参考記事:織田信長、豊臣秀吉も羨んだ天下無双の徳川家臣、本多忠勝(日経ビジネス)
細川家とのつながり
関ヶ原の戦いでは、今回ご紹介している本多の甲冑と同じ「黒糸威二枚胴具足」を戦に用いた「武将」も。その名は、細川忠興。細川忠興は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将・大名の1人。
画像引用:細川忠興(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
細川忠興のいる「細川家」と、本田が忠誠心を抱いていた「徳川家」は深いつながりがあると言い伝えられています。
そもそも細川家が徳川家と繋がったのは、豊臣秀吉が秀次(秀吉の甥)に謀反の疑いをかけた「秀次事件」が関わっているとも言われています。
秀次事件とは、1595年(文禄4年)に、豊臣秀次が豊臣秀吉に切腹させられた事件のこと。細川忠興の娘は、なんと秀次の家老である「前野景定」のところに、娘が嫁いでいました。また、細川忠興自身も、豊臣秀次に借金をしていたそうです。それらの要因から、細川は秀吉から「秀次の同胞」と疑われるように……。秀次事件の際には、なんと細川も「秀次の仲間」と思われたことで、秀吉に処罰されかけたそうです。
「秀次事件」で身の危険を感じた細川は、まずは娘を前野からすぐに離縁させました。また、自身の借金を帳消しするために、徳川家康に助けを求めたそうです。
文禄4年(1595)の話です。豊臣秀吉の甥、関白豊臣秀次に嫌疑が掛けられ、秀次は切腹を命ぜられました。この時、細川家は秀次に借金があった為に秀次との親密な仲を疑われます。家老の松井康之は奔走し金を用立てて、秀吉に返納しました。この時、細川家に金を貸したのが徳川家康でした。
引用:細川忠興(そうだ お城、行こう)
結局、徳川の助けを受けたことで、秀次への借金を秀吉に返すことができ、難を逃れたといわれています。この出来事がキッカケとなり、細川家は徳川家に「恩」を感じるようになります。そういった経緯があったからか、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、細川忠興は早々に徳川の方についたとされています。
関連記事:3分で簡単「豊臣秀次」の生涯ー殺生関白と言われた秀吉の甥をわかりやすく歴女が解説(study-z)
武具への造詣が深いことでも有名だった
徳川家に恩を感じている「細川忠興」は、武具への造詣が深いことでも有名でした。なんでも刀は自身の流派「片山伯耆流居合術」の刀法に合うように、独自の拵を開発することもあったそうです。
こだわりを持って開発を行う「細川の武具」は、機能性に富んだ作りをしているのが特徴とも言われています。なんと、本多が使用していた「黒糸威胴丸具足」は、その細川忠興の考案した甲冑「越中流」と作りが一緒だったそうです。もしかしたら、細川側から恩恵のある「徳川家」に甲冑の提案があったのかもしれません。
本多と並ぶ戦国武将の1人「井伊直政」との比較
画像引用:早世した最年少「徳川四天王」井伊直政が辿った生涯(サライjp)
本多と並ぶ有名な戦国武将には、同じく「徳川四天王」の1人である「井伊直政」の存在も。どちらも戦に強く、徳川四天王であったことから、2人が比較されるケースは少なくないようです。
2人の違いは、まず性格にあり。気性が荒く、部下にも厳しかったなど「厳しい部分」がクローズアップされがちな「井伊直政」に対し、本多忠勝は忠義と情に厚く、柔和な性格だったと言い伝えられています。なかには井伊の軍律の厳しさに耐えられず、優しい本多の下につこうとする家臣の姿も少なくなかったのだとか。
「井伊直政」と「本多忠勝」の甲冑を比較
「井伊直政」と「本多忠勝」の甲冑は、それぞれ正反対の性質・特徴があります。
そもそも本多の甲冑は軽い素材で作られており、動きやすいのが特徴。動きやすさをモットーとして作られた「甲冑」は、まさに「動く・戦うため」に作られていたとも言えるでしょう。
軽い作りであったにも関わらず、本多は戦の時に傷がかなり少なかったのだとか。もしかしたら軽やかに動き回れるからこそ、敵の攻撃を欺くことができ、傷が少なかったのかもしれません。その一方で井伊直政の「甲冑」は重厚な作りで大変重く、守るために作られたものでした。
画像引用:滋賀県指定有形文化財 指定記念 「彦根薩井伊家歴代の甲冑)(彦根城博物館)
それぞれ性格が異なる2人ですが、関ヶ原の戦いでは井伊、本多の二人が協力し合い、中心的に東軍をまとめていました。
対照的な性格ながら、徳川家康に対する忠義の点で目線が合致したのかもしれません。その後2人は、東軍を協力し合って統括し、見事に大勝利を果たしました。
優しく、強い男の子に育って欲しいなら本多が使用した甲冑「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」の五月人形がおすすめ
本多 忠勝は、性格的に優しく「徳川家」への忠誠心が高いことでも知られた有名な戦国武将です。忠勝は、徳川家康に幼少期のころから仕え「徳川四天王」の一人として天下統一を支えたことで有名な人物。忠勝は戦いに強く、なんと「出陣した合戦では、一度も負傷しなかった」という逸話も残っているほど。その一方で人に優しく、情に熱い一面も。
五月人形として作られた「本多忠勝公鎧平飾り」は、鹿の角があしらわれた個性溢れる忠勝の鎧を、本革仕立てで忠実に再現。「本多忠勝公鎧飾り」は、武勇のみならず「知略」に優れた武将としても評価が高い「本多忠勝」のように育ってほしいという願いが込められています。
端午の節句に、本多 忠勝が戦の時に着用した「黒糸威胴丸具足」を部屋に飾れば、強くたくましく、なおかつ優しい子に育ってくれることでしょう。
「本多忠勝公具足」と「本多忠勝公兜」の作品はこちらから。
【参考文献】
徳川家康没後四百年企画 「大関ヶ原展」図録
米原正義 編『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社
井伊直政家臣団の形成と徳川家中での位置
桃山~寛永文化移行期における深緑色塗料に関する一調査事例