戦国武将・上杉謙信は、兜から非常に神仏への信仰深さを思わせます。自らを毘沙門天の化身と信じていたと伝えられていますが、信仰の対象は1つではなかったのではないでしょうか。兜にまつわるエピソードについて、ご紹介していきます。
上杉謙信といえば毘沙門
上杉謙信は、毘沙門天を戦いの神として尊崇していました。そして、自らを毘沙門天の化身と信じて、自らの軍を「降魔の軍」とみなし、軍旗には毘沙門天の「毘」の一字を用いていました。
謙信は春日山城中に毘沙門堂を建立して日々読経を欠かさなかったと言われている方です。出陣前に毘沙門天が安置された毘沙門堂に籠り、戦勝祈願を行ったと語られています。
また、伝承では戦に明け暮れる日々を送る謙信が、久しぶりに春日山城に帰陣して、毘沙門堂へ上がったところ、驚いたことに、堂内には泥のついた足跡が毘沙門天像まで続いていたという話も残っています。謙信は「毘沙門天が共に戦場を駆け巡ってくれた」と歓喜し、この毘沙門天像を「泥足毘沙門天」と呼ぶようになったとか。
日輪弦月(日輪三日月)
戦国最強とうたわれた上杉謙信は、実は神仏へのとても深い信仰心がありました。幼いころより寺に預けられ多感な時期を過ごすうちに深い信仰の徒となり、武将になってからも変わりませんでした。
そんな謙信の兜の前立は「日輪三日月」と呼ばれる日輪と三日月がモチーフとなっています。とても格好良いと評判の前立ですが、これも宗教的な意味合いが込められていると言われています。
モチーフとなっている日輪と三日月は、勝利や護身にご利益がある「摩利支天」の象徴。摩利支天とは古代インドのマーリーチーが仏教に取り込まれて生まれた神様です。マーリーチーはサンスクリット語で「日月の光」を表します。
摩利支天は小さく、イノシシに乗り素早く移動するため実体が見えず戦場の守り神として武将に広く信仰されました。
飯綱権現
鉄錆塗六十二枚張兜の前立にもなっている、国宝・飯綱権現は白狐に乗った烏天狗です。この飯綱権現はインドから渡ってきたダキニ天と、不動明王信仰が合わさった神様です。
戦を勝利に導き、未来を予想する力も持つとされております。とりわけ、不動明王は多くの戦国武将に信仰され、加えてダキニ天は無神論と思われちである武将・織田信長等も信仰したと言われています。また謙信の深い信仰心に通じますが飯綱権現を信仰するために生涯独身を貫いたという説もあります。謙信はそこまで深く信仰していたと受け取れます。
上杉謙信が信仰の対象とした神仏は1つではない?
上杉謙信は人として深い信仰心を持つ人物ではありましたが、一つの信仰だけではなかったと推察されます。旗印にした毘沙門天、日輪弦月の由来となっている摩利支天、鉄錆塗六十二枚張兜の前立となる飯綱権現。いずれも戦と相性のよい神様ではありますが、異なる神様だからです。しかし、いずれの神様へも深い信仰心をもっていたと捉えられます。
だからこそ、強さそして現代においても尊敬される人格を手に入れることができたのかもしれないと雄山は考えます。
鈴甲子でも、上杉謙信の人となりに感銘を受け、飯綱権現については実物大の甲冑を製作しました。