上杉謙信と甲冑は切っても切れない関係にあったと考えられます。防具を身につけずに北条軍を突破した話や、甲冑を身につけたまま埋葬された話など、甲冑にまつわる伝説も少なくありません。そんな上杉謙信に所縁があるものとして伝えられている甲冑の数々をご紹介します。
甲冑などの防具を身につけず北条軍を突破した伝説
1560年(永禄3年)に北条氏政率いる北条軍約3万人に城を包囲され、落城寸前の唐沢山城城主・佐野昌綱は上杉謙信に救援を要請しました。
これを受け謙信は越後から駆け付け、十文字槍を手に城の南口から北条軍を切り裂いて突破し城内に到達。
そこから戦局は一変し、北条軍は士気が上がった佐野軍の攻撃を受け劣勢となり撤退を余儀なくされたのでした。
このとき、謙信が率いていたのは、わずか40騎ほどと言われています。さらに驚くべきことに謙信は甲冑などの防具を身にまとわず、北条軍を突破したと考えられている点です。
上杉謙信の甲冑といえば
諸説ある甲冑もありますが、上杉謙信に所縁のあるものとして伝えられている甲冑の例に以下があります。
本仕立飯綱権現前立腹巻鎧
上杉謙信が深い信仰を寄せていた飯綱権現を前立に添え、袖は広袖という裾広がりになる形状で、胴や袖は三色で威された色々威が特徴的です。
飯綱権現前立兜色々威腹巻鎧
兜は六十二間筋鉢、三段笠しころをつけ、前立には鍍金の飯綱権現をつけており、二重しころです。二重しころは槍への防御を考えられたものです。胴は腹巻形式、色々威となっています。
素懸熏韋威腹巻
腹巻の小札は一般に紺や紫、あるいは紅などの色糸で威したものが多いです。しかし、この腹巻は、松葉の煙でふすべた革で威してある珍しいものです。
金具回りはすべて黒塗りで単調で地味な部分を補うためか、小札板第一段に、菊花の金飾りを3個ずつ配し、草摺りの本小札にも金箔を押しています。
素懸白綾威黒皺韋包板物腹巻
上杉謙信が関東管領上杉憲政から拝領したと伝えられます。腹巻は中世甲冑の様式の一つとされ、軽快で機能性に優れ動きやすく考案されています。四ヵ所蝶番入鋲腹巻で黒皺韋包板物(鉄の板札に黒漆を塗った鹿革を貼り付けたもの)を白綾で素懸威(緒通し)したもので、裾つぼまりの壺袖もその特徴です。
紫糸威伊予札五枚胴具足
金梨子地の胸板で、中央には上杉家の家紋である「竹に雀」が、五七の桐紋が両脇に金蒔絵で描かれています。草摺は黒塗革製の伊予札で紫糸威八間五下りとなっています。
朱皺漆紫糸素懸縅具足
「三宝荒神」という、仏宝・法宝・僧宝の三宝を守護する仏神をかたどった三面の兜「三宝荒神形兜」が有名です。正面に赤い面、左右に黒と青の面を有します。
南蛮胴具足
南蛮胴は、安土桃山時代に南蛮貿易によってもたらされました。南蛮胴具足はヨーロッパの胴鎧を参考にした日本流の甲冑(鎧兜)です。胴部分は、小札を合わせて作った日本古来の胴と異なり、前後の胴が一枚の鉄板で作られており、正面の板に鎬(小高くなっている筋)があることが特徴です。
上杉謙信は甲冑を身につけた状態で埋葬された?
戦国時代最強の武将とうたわれた上杉謙信は、48歳で死去しました。死因には諸説ありますが、古文書によれば「不慮の虫気」との記載もあるようです。
上杉謙信の遺骸は、甲冑を着用した状態で甕(かめ)に入れ、漆で密閉し春日山城内不識院に安置されたと後の書物では言われています。しかし安置ではなく埋葬であったとか、林泉寺であったなど解釈も様々です。
今となっては真偽は不明ですが、上杉謙信と甲冑は切っても切れない関係であったことは間違いないようです。